杉原千畝生誕100周年記念展 in 瑞陵
展示内容
1.杉原千畝の生い立ち
1900年1月1日、岐阜県加茂郡八百津町に父好水、母やつの間に杉原家二男として生まれる。この「千畝」の名は千枚田、つまり棚田を意味し、1999年、郷里の棚田が「棚田百選」に認定された。杉原氏は少年時代、父親の転勤と共に転校を繰り返し、1912年(明治45年)3月に名古屋市立古渡尋常小学校(現・名古屋市立平和小学校)を全甲の成績で卒業し、翌4月に本校、愛知県立瑞陵高等学校の前身である愛知県立第五中学校(五年制)に入学した。この間にはサラエボ事件や第一次世界大戦などが勃発し、激動の時に青春時代を過ごした。そして1917年(大正6年)第五中学校を卒業し、父好水は京城に赴任し、中学を卒業する杉原氏のために、京城医学専門学校への入学試験の手続きをしたが、本人は英語を扱う職に就きたいという夢の為に試験を白紙で提出し、弁当だけを食べて帰宅した。しかし、このことが原因で父好水に勘当されて上京した。当時早稲田大学は普通の中学出であれば誰でも入学が出来たが、語学界の権威がそろっていたこの大学の高等師範部英語科に入学し、予科の1年間はほとんどアルバイトで学費を稼いでいたという。翌年、本科に進んで半年も経ないうちに図書館で外務省の官費留学生の募集広告を見て、早稲田大学を中退し、僅か一ヶ月余りの勉強で見事試験に合格し、試験担当官の勧めでロシア語講習を選択し、本来ならばソ連のペテルブルクかモスクワで学ぶはずだったが、当時日本はシベリア出兵を行っており、交戦中だったため、ロシア人が多く住みついている中国東北部のハルビンで学ぶこととなった。杉原氏は晩年になって残した「千畝手記」に「親の意志に従わず、早稲田大学に入学したことを、人生の第一の転機とするならば、外務省に入省したことは第二の転機となり、決定的な、運命の役割をすることとなった」と書き残している。
2.杉原千畝の功績
2.1 北満鉄道譲渡交渉
北満鉄道とは1896年9月に東清協定の締結によって創設された東清鉄道株式会社が起源で、清朝が倒れて「東支鉄道」に、満州国建国で「北満鉄道」という名称に変わり、現在は「長春鉄道」と呼ばれ、中国が管理、運営している。杉原氏は、当時通訳官として満州国外交部に出向しており、譲渡交渉を満州国首席代表大橋忠一外交部次長の下で担当することになり満州国書記長に指名された。譲渡交渉が始まると、杉原氏は状況を正確に把握していく上で、卓抜した語学力と調査能力を発揮した。その成果は、当初、ソ連側は鉄道及び付帯事業一切の譲渡価格を6億2500万円とし、杉原氏は北満鉄道譲渡に関わる煩雑な事件の調査や鉄道の状況を調査し、日満側は1億4000万円に抑え込み、従業員の退職金3000万円を足して、総額1億7000万円で決着した。この成果は当時の国家予算が約20億円であることから見ても快挙といえ、当時の新聞にも大きく取り上げられたという。戦後免官された時にこの国の運命を左右する交渉が考慮の材料として取り上げられなかったのが残念である。
2.2 ソ連入国拒否
1936年(昭和11年)12月杉原氏は外務省の人事で二等通訳官としてモスクワの日本大使館への赴任を命ぜられた。しかし、ソ連政府はこれを拒否し、杉原氏へのビザ発給は認められなかった。日本外交官の入国を拒否するという異例な挙に出たソ連のカズロフスキー極東部長は、かつて北満鉄道譲渡交渉のソ連代表者で、鉄道譲渡交渉に当っては、ソ連が恐怖するほどの杉原氏の卓抜した調査能力が発揮され、ソ連の惨敗となった前歴があり。この結果を不快に思い、杉原氏のソ連内での諜報活動を警戒したと言われている。杉原氏は赴任先がフィンランドのヘルシンキ公使館変更されたが、ソ連入国を拒否され、シベリア鉄道で行くことができず、1937年8月、海路にて日本を出発し、太平洋を渡り、シアトルから陸路、アメリカ大陸を横断し、ニューヨークから大西洋を渡り、ドイツで下船し、ベルリンから
ヘルシンキまでオランダ・スイスを経由しての国際列車を利用した。
2.3 ユダヤ人避難民にビザ発給
杉原氏の功績の内、最も有名なのがナチスの迫害から逃れてきたユダヤ人避難民に本省の訓令を無視してまでビザを発行した事であろう。杉原氏はヘルシンキ在任中の1939年7月、リトアニアのカウナスへ転任、領事館の開館を命ぜられた。1940年7月18日早朝、ドイツに併合されたポーランドからの避難民が、リトアニアのカウナス日本領事館の前に集まっていた。彼等の大部分はユダヤ人であり、ナチスの迫害から逃れてきたのであった。リトアニアもソ連に勢力下に置かれ、ソ連より閉鎖指令が出されていた。杉原氏もこの指示に従い、閉館業務をしている矢先の出来事だった。避難民にとって、ナチスの迫害から逃れる為には最早、シベリア鉄道でウラジオストックへ行き、そこから日本へ渡り、渡米するしか道はなかった。杉原氏はそのユダヤ人の群集の中から五人の代表者を出させて交渉に当った。その中の一人に後のイスラエル元宗教大臣ゾラフ・バルファフティク氏がいたのは有名な話である。彼はイスラエルにてご健在である。杉原氏は五人から現在のユダヤ人の状況を聞き、把握した上で本省へビザ発行の許可を求めた。しかし、本省からの返事は、渡航規則に則って発行せよというものであった。これは命からがら逃れてきた彼等には到底無理な話で、事実上、拒否通知であった。結局、計三回にわたって電報を打ったが、そのいずれもが認められなかった。杉原氏は苦悩の挙句、妻幸子さんの助言もあって、ある一つの決断をした。千畝手記にはこう書かれている。「私はついに、人道主義・博愛精神第一という結論をえました」避難民へのビザ発給の決断であった。時に7月25日のことであった。杉原氏はオランダ領キュラソー島を最終目的地とする特殊なビザを発行した。岩だらけの小さな島であるオランダ領キュラソー島へは、入国ビザが要らず、旅費・滞在費は「ユダヤ機関」から神戸ユダヤ協会に届けられる資金を現地で受け取ることでクリアできる。杉原氏は発行に際し、変則的ではあるが合法的であると自分自身を納得させた。松岡外相の要請により作成され、外務省で保管されていた「杉原リスト」によると、7月9日から8月28日までに発行したビザは2139枚で、ビザは家族単位に出されているので、1枚を家族三人とすれば約6000人もの人々が助かった計算になる。これが6000人の命のビザと言われる所以である。しかし、26日に領事館を閉鎖した後もメトロポール・ホテルにてベルリンへ出発する直前ビザの申請を受け付け、サインと「公館長印」を押した「渡航証明書」を用意し、9月5日の白昼のプラットホームでも出発間際まで彼等に「渡航証明書」を書き続けた。この間までの分は「杉原リスト」には載っていない。列車が動き出した時、杉原氏と再開を約束したジェホシュア・ニシュリ氏も代表五人の一人で、後にイスラエル大使館員として来日し、杉原氏と再会した。そして、これがきっかけとなり、杉原家四男の信生氏がヘブライ大学へ留学することなり、1968年(昭和43年)9月2日の朝日新聞の記事になり、日本において初めて「杉原ビザ」の話がメディアに登場した。
2.3 ビザ発給後の杉原氏と、ユダヤ人との再会
カウナスでの一件の後、杉原氏は、プラハ領事館、ケーニヒスブルク総領事館勤務の後、ルーマニア公使館三等書記官として、ブカレストに赴任した。そしてルーマニア赴任中に終戦を迎え、ソ連がリトアニアに侵攻し、杉原氏は、イタリアの外交官らとともに、ブカレスト郊外の、収容所に連行された。日本への帰還は、零下45度の極寒のシベリア大地を鉄道で越えるなど困難の連続であったが、杉原氏のロシア語能力のおかげもあって、無事二年後、日本に帰国することができた。1947年、杉原氏は、「リトアニア事件」(杉原氏の一連の行動に関する外務省の呼び方)によって外務省を去らざる負えなくなり、外交官としての生活にピリオドを打つことになった。免職後、外交官として、外国とのつながりがあったことにより、東京PX(現松坂屋デパート)に総支配人として勤め、その後、NHK国際部勤務、そして貿易会社を、数社転々とした。貿易会社では、全てが、モスクワ勤務であった。
1968年6月偶然にもカウナスの元ユダヤ難民のゼホシュア・ニシュリ氏と再会した。彼らユダヤ人たちは、戦後すぐに外務省に杉原氏を照会したが、彼らは『センポ・スギハラ』と言う名で照会していたため、見つけることができなかった。
杉原氏は、ユダヤ人世界では「命の恩人」として尊敬されていた。翌1969年には、カウナスでユダヤ人代表5人の中の一人であった、ゾラフ・バルハフティク元イスラエル宗教大臣から勲章を受けた。杉原氏は1975年まで国際貿易に勤め、1985年には、ユダヤ人国家建設のために功績のあったものに対して授与され、今までに世界中で約800人が受賞し、日本人としては初の受賞となる、「諸国民の中の正義の人賞」(ヤド・バシェム賞)を受賞し、映画で有名となったシンドラーと共にユダヤ人を救った偉大な人として世界的な注目を集めることとなった。
杉原氏は前記の「自治三訣」に基づいて、世界中のマスコミに取り上げられることは、不快に思っていたことであろう。それから杉原氏は、体にも不調が顕著に現れ始め、1986年、杉原氏は鎌倉にて86歳で死去した。死後世界中から多くの弔問があり、その中には、「スギハラを免官した外務省に抗議する」といった内容のものもあった。
杉原氏に対する、世界的な知名度の向上にも伴って、日本でも1992年、国会において当時の宮沢喜一首相の発言により、名誉回復がなされた。
このような杉原氏の行動を納めたものの中に、「杉原は、金をもらってビザを書いた。」などという明らかに事実の捏造としか考えられない表記が見つかるのは非常に残念である。
3.記念式典取材旅行記
平成12年7月30日岐阜県八百津町で行われた杉原千畝記念館開館式の模様をお伝えします。
4.まとめ
本日、記念祭というたくさんの人々が集まる場で大先輩である杉原千畝氏がどのような人物であるかを知っていただける機会を持てた事をうれしく思います。本校では同窓会主催による「センポ・スギハァラ」(劇団銅鑼)観劇会を10月23日に予定しております。先輩とはいえ、国内において杉原氏の功績が認められるようになったのも日が浅く、校内での知名度もまだまだです。最近では、前にも述べたように、杉原氏の功績を捏造されることもあり、如何に事実を伝えるかという事に最新の注意を払って準備を進めてきました。杉原氏はよく「日本のシンドラー」と形容されますが、杉原氏の方がシンドラーよりも早い時期に救済を始め、より多くの人々を救っています。だからと言って、シンドラーよりも偉いとかいう事ではなく、ただ、事実として知っておいって頂きたいのです。本日の記念展において杉原氏の当時の写真提供をして頂き、参考文献とさせて頂いた「真相・杉原ビザ」の著者である大正出版社長、渡辺勝正氏や、記念館取材や資料を提供してくださった同窓生、市川鴻之祐氏、また資料提供してくださった同窓会の方々にもこの場を借りて厚く御礼申し上げます。